三冊目

論語 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス 中国の古典)

論語 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス 中国の古典)


再び、ビギナーズ・クラシックスシリーズ。今回は論語。本の前半が、孔子の生涯を、合間に論語を引用しながら紹介し、後半は論語の代表的な言葉をテーマごとにわけて載せている。
徒然草と同じく、論語も古典の教科書で読んだだけ。この後登場する、源氏物語枕草子も教科書以外では触れたことがない。大抵の日本人はきっとそうだろう。そう考えると、古典文学に触れる機会を作ってくれる教科書というのはじゅうようなものなんだなと思えてくる。読解は疲れるけど、文章自体の威力はあるし中身だって当然いいことが書かれているはずだから。


で、読んだんだけど、自分の心に引っかかってくるところがほどんどなかった。そのとおりだなあと深く共感するところ、こういう考え方があったのかとひざをたたくようなところ、そういうのが見当たらない。これを書いているのは読了した一日後だけど、印象深い言葉を思い出そうとしても正直なにも出てこない。ページの端を折った箇所も、徒然草にくらべるとずっと少ない。
(できているかは別として)当たり前のことばかりが書かれているのだ。勉強したら復習しろとか、父母に尽くすのが人間の根本だとか、孔子の馬小屋が家事に遭っても馬の被害より人の被害をまず心配したとか、いまさら強調して言われても改めてなにかを感じたりはしない話が大半なのだ。頭の固い老人の説教を受けているような気にさせられる。
論語儒教の基礎であり、儒教の考え方は普段の生活にある程度浸透している。孔子の考え方は現在まで受け継がれ、あるいは変形して何らかの形で今に伝わっている。だから、こうやってその大本の部分をありがたいものだとして提示されても、(実践できているかは別にして)もうそれはわかってるよ、といいたくなる。これが今回論語を読んでも感銘を受けなかった理由なんだろうと思う。


とすると、少なくとも私にとって今論語を読むことの意義は、前段括弧でくくった箇所を解消するための手段、頭でわかっていることを実行に移すための手段として存在する。どういうことかというと、原文を暗記するのである。たとえば私は知ったかぶりをする癖があって、知らないことを知らないと言えずに損をすることがある。ちゃんと訊かなきゃと思っても訊けないことがあるのだ。そんあときに「之を知るは之を知ると為し、知らざるは知らずと為す、是知るなり」という論語の言葉を覚えていたら、状況は変わるかもしれない。切れ味鋭い漢語文が自分の中に存在することで、戒めとしてうまく作用できそう。
そういう意味では、読了した時点では何の意味もなくて、読んで暗証できるようになってからが本当の勝負なんだろう。ということで、以下の三文はちゃんとおぼえておくことにします。


「過ちて改めず、是を過ちという」
「之を知るは之を知ると為し、知らざるは知らずと為す、是知るなり」
「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」


満足度 ★★


次に読む本を発見。