今回もまた、角川ソフィア文庫。「知っておきたい」シリーズというのがあるらしく、その中の一冊。他には、「日本の神様」「仏像の見方」「食の世界史」などがある。本書は、タイトルの通り、日本の名字と家紋について、歴史的・地理的背景から解説している。ちなみに私の名字については一切触れられていなかった。メジャーでなければマイナーでもない、特定の地域に異常発生しているわけでもない、何の特徴もないごく普通の名字ということか。ガッカリだ。こういう本は、自分の名字があるかないかで、読了後の満足度が相当違いそうな気がする。


それにしても、「日本の名字と家紋」ってそんなに「知っておきたい」ことなのだろうか?そりゃあ知らないよりは知っておいたほうがいいだろうけど、でも名字と家紋よりだったら、もっと「知っておきたい」ことはたくさんありそうじゃないか?雑学という観点から読めば楽しめそうだけど、教養という恐らくこのレーベルが目指しているであろうベクトルに、果たしてフィットしているのだろうか?
そんな疑念を抱きながら読んだ。
読み終えて、その疑念は払拭されなかった。
今の日本がどういう流れの中で成り立ってきたか、その知られざる一面を知ることができたといえばできたのかもしれないけれど、それに意味があるかと考えれば微妙なところである。やはり、雑学という概念に収束せざるを得ないような内容(高度な雑学ではあると思う)だった、というのが印象として残った。


最も、雑学として読めば十分に楽しめた。
例えば、名字と苗字の違い。平安末期に武士が初めて名字を名乗ったとき、その名字は自分がある土地の領地であることを他の武士に示すためのものであり、武士が治める集落のことを「名」と呼んだ。それが江戸時代、武士を土地から切り離す政策を取った。領主という形から、給料制に変えたのだ。江戸幕府は土地を支配する者が用いる名称を表す「名字」を嫌い、代わりに「苗」という語を当てたのである。らしい。
例えば、東西の名字の違い。東日本は武士が名字を広め、西日本は庶民が自主的に名字を名乗った。だから、東日本は藤原家の流れを汲んだ「佐藤」「伊藤」「齋藤」という「藤」のつく名字が多く、西日本は中村、吉田など地形に由来する名字が多い。
らしいですよ。


読了日7/12
満足度★★


次に読む本を発見。

絵草紙 源氏物語 (角川文庫 (5594))

絵草紙 源氏物語 (角川文庫 (5594))


三冊目

論語 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス 中国の古典)

論語 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス 中国の古典)


再び、ビギナーズ・クラシックスシリーズ。今回は論語。本の前半が、孔子の生涯を、合間に論語を引用しながら紹介し、後半は論語の代表的な言葉をテーマごとにわけて載せている。
徒然草と同じく、論語も古典の教科書で読んだだけ。この後登場する、源氏物語枕草子も教科書以外では触れたことがない。大抵の日本人はきっとそうだろう。そう考えると、古典文学に触れる機会を作ってくれる教科書というのはじゅうようなものなんだなと思えてくる。読解は疲れるけど、文章自体の威力はあるし中身だって当然いいことが書かれているはずだから。


で、読んだんだけど、自分の心に引っかかってくるところがほどんどなかった。そのとおりだなあと深く共感するところ、こういう考え方があったのかとひざをたたくようなところ、そういうのが見当たらない。これを書いているのは読了した一日後だけど、印象深い言葉を思い出そうとしても正直なにも出てこない。ページの端を折った箇所も、徒然草にくらべるとずっと少ない。
(できているかは別として)当たり前のことばかりが書かれているのだ。勉強したら復習しろとか、父母に尽くすのが人間の根本だとか、孔子の馬小屋が家事に遭っても馬の被害より人の被害をまず心配したとか、いまさら強調して言われても改めてなにかを感じたりはしない話が大半なのだ。頭の固い老人の説教を受けているような気にさせられる。
論語儒教の基礎であり、儒教の考え方は普段の生活にある程度浸透している。孔子の考え方は現在まで受け継がれ、あるいは変形して何らかの形で今に伝わっている。だから、こうやってその大本の部分をありがたいものだとして提示されても、(実践できているかは別にして)もうそれはわかってるよ、といいたくなる。これが今回論語を読んでも感銘を受けなかった理由なんだろうと思う。


とすると、少なくとも私にとって今論語を読むことの意義は、前段括弧でくくった箇所を解消するための手段、頭でわかっていることを実行に移すための手段として存在する。どういうことかというと、原文を暗記するのである。たとえば私は知ったかぶりをする癖があって、知らないことを知らないと言えずに損をすることがある。ちゃんと訊かなきゃと思っても訊けないことがあるのだ。そんあときに「之を知るは之を知ると為し、知らざるは知らずと為す、是知るなり」という論語の言葉を覚えていたら、状況は変わるかもしれない。切れ味鋭い漢語文が自分の中に存在することで、戒めとしてうまく作用できそう。
そういう意味では、読了した時点では何の意味もなくて、読んで暗証できるようになってからが本当の勝負なんだろう。ということで、以下の三文はちゃんとおぼえておくことにします。


「過ちて改めず、是を過ちという」
「之を知るは之を知ると為し、知らざるは知らずと為す、是知るなり」
「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」


満足度 ★★


次に読む本を発見。



二冊目は、古典の名作を取り上げた「角川ソフィア文庫 ビギナーズクラシックス」というシリーズからの一冊。徒然草全243段のいくつかを現代語訳→原文→解説という流れで紹介している。
徒然草は学生時代に古典の授業で触れた程度、というのが平均的日本人のあり方だと思う。私もそのうちの一人。だけど、徒然草はちゃんと読むときっと面白いんだろうな、とは思っていた。きっと今までは思いもよらなかった物事の見方考え方がぎっしりと詰まっていて、生きていくうえでのヒントがたくさん得られるんではないかと思っていた。


で、読んだ。
現代語訳を読んで、気に入った内容だったらページの端を折って、原文に目を通すという流れで読み進めた。
読み終わって、ある程度の満足感に浸り、同時に一抹の物足りなさも覚えた。
その理由をちょっと考えてみて、現代語訳文で読み進めたのが原因なのかもしれないと気づいた。
難解で面倒くさくはあるけれど、やはり格調高い古文で読んだほうが、文章の示す内容は同一だとしても味わい深いし、だからこそ自分のものになりやすい。あるいは、難解でめんどうくさいからこそ、必要以上にその内容は高度であると錯覚してしまう。すいすいと読み通したいがために現代語訳ばかりを読んでしまったけど、本当は原文にじっくりと向き合ったほうがよかったのだ。そう思うと次に進んでしまうのが心残りではある。


作品と巻末の評伝を読んで、吉田兼好という人はひじょうにバランス感覚に優れていると思った。出家してこの世の無常と向き合いながら、自らの生活のために財テクを行い、良家の人々と交友を図る。俗世間とは超越した境地に身を置きながら、俗世間との交わりも怠らない。作品も人の世の移り変わりを嘆いたものから、自分の知っている面白エピソードまで、幅広い。「対立する二面をほどよく調和させて生きる現実主義者」であったようだ。


「偽りても賢を学ばむを賢といふべし」
「この一矢に定むべしと思へ」
「ただ今の一念、むなしく過ぐることを惜しむべし」


満足度★★☆


次に読む本を発見。

論語 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス 中国の古典)

論語 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス 中国の古典)


1冊目

動物農場 (角川文庫)

動物農場 (角川文庫)


一発目から、こんな機会でもなければ手に取るどころか存在自体すら認識しなかっただろう本である。著者も、著書も、聞いたことがない。これはとっても好都合なこと。こういう、普段だったら読まないような本を読むことが、この企画を行う上での楽しみの一つになるんだから。
著者のジョージ・オーウェルという人は、インド生まれのイギリス人。この本はスターリン社会主義政治に対する批判として書かれたもの、らしい。裏表紙の著書説明に「20世紀のイソップ物語」とあるように、動物たちを登場人物としたいわゆる寓話である。


農場で家畜として飼われていた動物たちが、ある日反乱を起こして人間を農場から追放する。自由となった彼らは、農場の中で動物による新たな平等社会を作ろうとする。新しい社会では、動物の中で一番賢いとされる豚が中心となった。その中でも、ナポレオンとスノーボール、この二匹がリーダーとなって改革を進めていった。彼らはいつも意見が対立し、激しくぶつかり合った。あるときナポレオンは、密かに育てていた大きくて獰猛な犬にスノーボールを襲わせ、牧場から追放させる。ナポレオンは農場の頂点に立ち、自分の好きなように方針を定めていく。
ナポレオンは巧みな手段を用いて、彼と豚たちによる独裁体制を作り上げていく。他の動物たちが不満を持てば、人間支配の時代を持ち出しあの頃に戻りたくはないだろうと諭す。スノーボールを人間と手を組んでいた悪人と決めつけることで、自身に対する信頼感と農場の一体感を作り上げる。規律を豚の都合のいいように書き換えて、自分たちだけが贅沢をする。貧しさに耐えて働く動物たちに、「あの頃と違って今は奴隷じゃなくて自由なんだ」と説得して満足感を与えさせる。ナポレオンに反感を持つ動物たちを自白させて殺す。


人間の支配から逃れるために革命を起こしたはずなのに、結局のところ今度は豚によるその他の動物たちの支配を受けてしまう。その社会は不幸であり、欺瞞と恐怖に満ちている。社会主義から生じる独裁体制を皮肉るという意図はあったものの、様々な国、政治体制に置き換えて考えることができる小説である(だからこその寓話なんだろうけど)。日本に置き換えてみても、例えば外国の脅威を必要以上に強調して軍拡を進めようと画策するように感じることがあるし、書き換えこそしないものの憲法を自分に都合のいいように解釈しているように感じることがある。この寓話には権力の歪みのパターンが抽出されているから、あらゆる具体的事例に置き換えて現実の社会を視る力がつく。個人的には、外に敵を作ることで内側の結束力を高めるというのが興味深かった。同じグループに属するけどその場にいない誰かの悪口を言うと、一層仲良くなれた気になるのと同じなのかもしれない。


「そうだ、ジョーンズがもどってくるのだぞ!それでいいのか、同志諸君!」
「いいか、諸君の中には、ジョーンズに帰ってきてほしいと願うものは、ひとりもいないだろう、どうだ?」
「諸君の中に、ジョーンズに戻ってきてほしいと願っているようなひとは、ぜったいにいるはずはないんだからね?」




読了日 7/6
満足度 ★★★★
この本に関する記事
http://ch02148.kitaguni.tv/t123265
http://blog.goo.ne.jp/tbinterface/59da2db46903417d7914cb666ddf2847/54
http://book100.g.hatena.ne.jp/autonomina/20060405

次に読む本を発見。